2014年 06月 08日
古いノートのページから |
書棚を整理していたら、古い「ノート」が出てきた。そのころ某業界紙に寄稿していたものだ。そこには、昔も今も変わらぬ「コンサート界」の姿があった……。
時は1988年である。
演奏会をおもしろくするためには聴き手は素直な反応を示したい。
優れた演奏家は聴衆を啓蒙し、優れた聴衆は良き演奏家をはぐくむ。
昨年某大新聞(全国紙)の評論欄に、『コンサートでのアンコールの拍手は三回までとするのがマナーである』という一文が、堂々と署名入りで載ったのには恐れ入った(三回と限るところが泣かせる。とんと落語の《茶の湯》のお作法のようだ)。この人にしてなおかつ、拍手即オネダリという認識が悲しい。気のせいか、それ以後この種のマナー論をちょいちょい耳にするようになった。……これも『環境』問題の一端である。
いささか旧聞で恐縮だが、昨年六月名古屋市民会館大ホールで海野義雄(オーケストラは名フィル、指揮外山雄三でベートーヴェンの協奏曲)を聴いたときのことに触れたい。海野は一時期日本を代表するすばらしいヴァイオリニストであった。若くしてNHK交響楽団の首席コンサートマスターに就任して立派にその重責を果たすとともに、ソリストとしても海外に名を馳せ、多くの熱烈なファンを魅了した。そして東京芸大教授として後進を育てる立場にある時、あの「ガダニーニ事件」が起きたのは御存じの通りである。今回は、そういう彼の、言うなれば『再デビュー』コンサートであり、雌伏を余儀なくされていた聞のヨーロッパ遊学が彼に何をもたらしたであろうか、と、私も大きな興味を抱いて出掛けたのだった。そして結果は、(私にとっては)残念ながら期待を裏切るものであった。『事大主義のベートーヴェン』とでも言ったらいいか……楽章が進むにつれ、そのことさらに大家然とした音楽づくりの空しさは、私にはほとんど耐え難いものとなっていった……確かに技巧的にはこれといった破綻はない、むしろ上手な演奏なのだが、そこには何のひらめきも、感動もない……。しかしその夜の聴衆は、彼にとって幸いなことには『武士道』を解する人々であった。延々と続く拍手の波に何度ステージを往復したことか。彼がどう感じていたかは知るよしもないが、私は、あれは彼の『再出発』に対する暖かいはなむけの拍手であった、と今でも信じている。その後の彼はどうしているであろうか。いつの日あの拍手に酬いるであろう?
今年一月一四日、名古屋電気文化会館で〈ザ・ヒリアード・アンサンブル〉のコンサートがあった。『ルネッサンスのポリフォニーを歌わせては世界一』の定評のあるこのグループによる男声四重唱は、多くのコンサートにみられるように初めはいささかぎこちなさがあったが、やがて波に乗り、後半にいたって遂に期待を上回る高揚を示していった。人の声による歌は、それが素敵にすばらしく演奏された時、他のたかなる楽器による音楽よりも激しく人を魅了する力を持ちうる。この思いは当夜の聴衆に共通したと見えて、曲と曲の聞の息づまるような静粛=決して強いられたものではなく次に来たるものへの極度の期待感に満ち溢れた静けさ=と、予定されたすべてのプログラムが終わった後に沸き起こった終わることを知らない熱烈な拍手によっても表わされていた。(この感動がどこから来るかと考えると、このアンサンブルのもつ体質ともいうべきものと決して無縁でないことに思いあたる。たとえば彼らのレパートリーの中には現代の作品も多く取り入れられていて、決して『古楽専門』に陥らず、ましてやいたずらに懐古的であったり、かたくなに学究的であったりしない。またメンバーの素顔はまことに陽気な青年たちである。それらは自らステージに反映きれて、たとえ古き良き時代の《聖なる芸術》を演奏しつつも、現代の大衆を激しく魅了するのである。このことについてはまた後に別に触れたいと思っている。)
さて、明るい笑顔と拍手で率直に表わされた聴衆の喜びは当然演奏家にも通じ、楽屋とステージを往復すること十数回、遂に彼らは八曲もの『おまけ』を歌ったのであった。名古屋に先立つ東京公演では三曲、京都では一曲だったと聞くが……。そして数日後、主催者であるルンデに一通の差出人のない手紙がきた。曰く『あのアンコールはどうでしょう。はからずも名古屋人のいなかっぽさを見た思いです。何曲も歌わされてヒリヤードの方々はかわいそう……。あのようにとどまる所を知らぬ拍手は非礼にあたります、云々』。
そもそも演奏が(演奏会が、ではない)終わった後の拍手は聴衆の示す反応の表現であって、その密度と継続時間が判定結果であると考えられる。つまり聴衆はその満足度を表す最良の手段として拍手を持っている。演奏会の途中でいったん袖へ下がった演奏者が、熱烈な拍手に何度も何度もステージに呼び返されるシーンは、ちっとも不自然ではない。そして予定プログラムが終了したところで最終判定が下される。これは極めて重大であって、演奏者にとってその日の演奏が聴衆にどう受け取られたかを知る最大のそしてほとんど唯一のチャンスなのだ。アーチストたちの『演奏』という問いかけに対して、聴き手は率直に答えて欲しいと思うし、彼らもそれを願っている。
だが、演奏会が終了したら何しろ盛大に手を叩いてオネダリするのがマナーである、となるといささか事情が違ってくる。ましてやその回数にも決まりがあるとなると……。
もしマナーということであれば、もっと別の問題がある。たとえば生の演奏会は複数の聴衆で共有する場であるから、それをわきまえるというごく初歩的なことだ。その意味で、自分勝手な反応を撒き散らす存在と席を同じくすることは耐えられない。最後の音がまだ鳴りやまないのに構わず蛮声を張り上げる『プラボー屋』、演奏者自体がまだ余韻を確かめているにもかかわらず、聴衆の多くもまたともにその余韻を楽しんでいるにもかかわらず、さっさとその思い入れをぶちこわしてしまう拍手をする人、彼らは一体音楽を聴いているのだろうか。演奏中から準備をしなければとてもタイミングとしては間に合いそうもない素早い反応には恐れ入り、そしてせっかくの一夜を台無しにされた苦い思いをかみしめながら帰路につく無念きを味わった方は多いと思う。コンサートを締めくくるのは、聴衆であるのだ。
話題を変えよう。
山下和仁兄妹のギター・リサイタル(二月二十日春日井東部市民センター)を聴いた。ご承知のように山下和仁はいわゆる音大出ではない(もっとも日本の音楽大学器楽科ではギター、ハーモニカ、アコーディオンなどのポピュラーな楽器を専攻することができない。この種の問題は他にもあって、たとえば声楽科の主体はイタリア・ドイツ・フランス歌曲であって、日本歌曲やスペイン歌曲を満足な状態で学習することは非常に困難だし、日本の伝統的な音楽や楽器についてもそうである。)しかしそんなこととは関係なく彼のギターは、文句なく世界に通じる超一級品である。そして彼の人気の秘密と特徴は、編曲もの(つまり他の楽器のための作品を、ギターの上に移し変えたもの)のすばらしい演奏にあると一言ってもいいだろう。むろんギターには、その前身である楽器の時代も含めれば長い歴史があり、レパートリーも多く、現在もまた増えつつある。彼は当然そういったギターのためのオリジナル作品も弾くが、しかし何といってもその非凡さは、さまざまな楽器のための作品(とりわけ管弦楽のためのもの)をギターの『言葉』で考え直す抜群の音楽性と、それを実際に音として再現できる高度なテクニックにある。聴衆はギターに対して持っていた漠然とした観念を見事に覆されて唖然とする。そして彼が新しい世界を描きだそうとするその強い意志にも感動するのだ。彼のステージはそのような期待を伴って迎えられる。しかし常に彼の意図が成功するとは限らない。当夜の内容にもそれはみられた。だがその上でなお、彼のコンサートには足を運ばせる何かがある。
演奏家が主張し、聴衆が反応する。演奏家の主張は聴衆への啓蒙であり、聴衆の反応は演奏家への要求でもある。コンサートを魅力あるものにするためには、このコミュニケーションが確立される必要がある。日本のクラシックの音楽会が、いま活気を失っているように思えるのは、そのあたりにも原因がありそうである。演奏家たちには、はっきりした主張を打ち出したプログラムなり演奏なりを示してほしいし、また聴き手も、自分の好みを言う前に、まず相手の主張に耳を傾ける度量がぜひともほしい。そして現状では、その両者の聞に介在するさまざまな存在の責任がはなはだ大であることは言うまでもない。
ところで三月二日朝、すでに締切日は過ぎたこの原稿を今日は書き上げねばと意気込みつつも、まずはと朝刊を聞くと『愛環鉄道は泣いている』との大見出しがあった。経営合理化のための無人駅が無賃駅と化しているという、何ともやりきれない記事だった。対策として社員を増員して無人駅に配置すると、その人件費は無賃乗車による被害額を超えるらしい。だがそうでもしないと『きちんと払ってくれる乗客に申しわけない』という社長(愛知県知事)の談話はまことに当を得ている。そうあるべきである。この『申しわけない』心が忘れかけられているところが音楽界にも多々あって『環境汚染』に輪をかけ、結果として演奏家の生活をも脅かしつつあることにはあまり関心が払われていない、というこの欄で私が提起したいと考えている大きな問題と似た現象が、図らずも別の世界で垣間みられた。
時は1988年である。
演奏会をおもしろくするためには聴き手は素直な反応を示したい。
優れた演奏家は聴衆を啓蒙し、優れた聴衆は良き演奏家をはぐくむ。
昨年某大新聞(全国紙)の評論欄に、『コンサートでのアンコールの拍手は三回までとするのがマナーである』という一文が、堂々と署名入りで載ったのには恐れ入った(三回と限るところが泣かせる。とんと落語の《茶の湯》のお作法のようだ)。この人にしてなおかつ、拍手即オネダリという認識が悲しい。気のせいか、それ以後この種のマナー論をちょいちょい耳にするようになった。……これも『環境』問題の一端である。
いささか旧聞で恐縮だが、昨年六月名古屋市民会館大ホールで海野義雄(オーケストラは名フィル、指揮外山雄三でベートーヴェンの協奏曲)を聴いたときのことに触れたい。海野は一時期日本を代表するすばらしいヴァイオリニストであった。若くしてNHK交響楽団の首席コンサートマスターに就任して立派にその重責を果たすとともに、ソリストとしても海外に名を馳せ、多くの熱烈なファンを魅了した。そして東京芸大教授として後進を育てる立場にある時、あの「ガダニーニ事件」が起きたのは御存じの通りである。今回は、そういう彼の、言うなれば『再デビュー』コンサートであり、雌伏を余儀なくされていた聞のヨーロッパ遊学が彼に何をもたらしたであろうか、と、私も大きな興味を抱いて出掛けたのだった。そして結果は、(私にとっては)残念ながら期待を裏切るものであった。『事大主義のベートーヴェン』とでも言ったらいいか……楽章が進むにつれ、そのことさらに大家然とした音楽づくりの空しさは、私にはほとんど耐え難いものとなっていった……確かに技巧的にはこれといった破綻はない、むしろ上手な演奏なのだが、そこには何のひらめきも、感動もない……。しかしその夜の聴衆は、彼にとって幸いなことには『武士道』を解する人々であった。延々と続く拍手の波に何度ステージを往復したことか。彼がどう感じていたかは知るよしもないが、私は、あれは彼の『再出発』に対する暖かいはなむけの拍手であった、と今でも信じている。その後の彼はどうしているであろうか。いつの日あの拍手に酬いるであろう?
今年一月一四日、名古屋電気文化会館で〈ザ・ヒリアード・アンサンブル〉のコンサートがあった。『ルネッサンスのポリフォニーを歌わせては世界一』の定評のあるこのグループによる男声四重唱は、多くのコンサートにみられるように初めはいささかぎこちなさがあったが、やがて波に乗り、後半にいたって遂に期待を上回る高揚を示していった。人の声による歌は、それが素敵にすばらしく演奏された時、他のたかなる楽器による音楽よりも激しく人を魅了する力を持ちうる。この思いは当夜の聴衆に共通したと見えて、曲と曲の聞の息づまるような静粛=決して強いられたものではなく次に来たるものへの極度の期待感に満ち溢れた静けさ=と、予定されたすべてのプログラムが終わった後に沸き起こった終わることを知らない熱烈な拍手によっても表わされていた。(この感動がどこから来るかと考えると、このアンサンブルのもつ体質ともいうべきものと決して無縁でないことに思いあたる。たとえば彼らのレパートリーの中には現代の作品も多く取り入れられていて、決して『古楽専門』に陥らず、ましてやいたずらに懐古的であったり、かたくなに学究的であったりしない。またメンバーの素顔はまことに陽気な青年たちである。それらは自らステージに反映きれて、たとえ古き良き時代の《聖なる芸術》を演奏しつつも、現代の大衆を激しく魅了するのである。このことについてはまた後に別に触れたいと思っている。)
さて、明るい笑顔と拍手で率直に表わされた聴衆の喜びは当然演奏家にも通じ、楽屋とステージを往復すること十数回、遂に彼らは八曲もの『おまけ』を歌ったのであった。名古屋に先立つ東京公演では三曲、京都では一曲だったと聞くが……。そして数日後、主催者であるルンデに一通の差出人のない手紙がきた。曰く『あのアンコールはどうでしょう。はからずも名古屋人のいなかっぽさを見た思いです。何曲も歌わされてヒリヤードの方々はかわいそう……。あのようにとどまる所を知らぬ拍手は非礼にあたります、云々』。
そもそも演奏が(演奏会が、ではない)終わった後の拍手は聴衆の示す反応の表現であって、その密度と継続時間が判定結果であると考えられる。つまり聴衆はその満足度を表す最良の手段として拍手を持っている。演奏会の途中でいったん袖へ下がった演奏者が、熱烈な拍手に何度も何度もステージに呼び返されるシーンは、ちっとも不自然ではない。そして予定プログラムが終了したところで最終判定が下される。これは極めて重大であって、演奏者にとってその日の演奏が聴衆にどう受け取られたかを知る最大のそしてほとんど唯一のチャンスなのだ。アーチストたちの『演奏』という問いかけに対して、聴き手は率直に答えて欲しいと思うし、彼らもそれを願っている。
だが、演奏会が終了したら何しろ盛大に手を叩いてオネダリするのがマナーである、となるといささか事情が違ってくる。ましてやその回数にも決まりがあるとなると……。
もしマナーということであれば、もっと別の問題がある。たとえば生の演奏会は複数の聴衆で共有する場であるから、それをわきまえるというごく初歩的なことだ。その意味で、自分勝手な反応を撒き散らす存在と席を同じくすることは耐えられない。最後の音がまだ鳴りやまないのに構わず蛮声を張り上げる『プラボー屋』、演奏者自体がまだ余韻を確かめているにもかかわらず、聴衆の多くもまたともにその余韻を楽しんでいるにもかかわらず、さっさとその思い入れをぶちこわしてしまう拍手をする人、彼らは一体音楽を聴いているのだろうか。演奏中から準備をしなければとてもタイミングとしては間に合いそうもない素早い反応には恐れ入り、そしてせっかくの一夜を台無しにされた苦い思いをかみしめながら帰路につく無念きを味わった方は多いと思う。コンサートを締めくくるのは、聴衆であるのだ。
話題を変えよう。
山下和仁兄妹のギター・リサイタル(二月二十日春日井東部市民センター)を聴いた。ご承知のように山下和仁はいわゆる音大出ではない(もっとも日本の音楽大学器楽科ではギター、ハーモニカ、アコーディオンなどのポピュラーな楽器を専攻することができない。この種の問題は他にもあって、たとえば声楽科の主体はイタリア・ドイツ・フランス歌曲であって、日本歌曲やスペイン歌曲を満足な状態で学習することは非常に困難だし、日本の伝統的な音楽や楽器についてもそうである。)しかしそんなこととは関係なく彼のギターは、文句なく世界に通じる超一級品である。そして彼の人気の秘密と特徴は、編曲もの(つまり他の楽器のための作品を、ギターの上に移し変えたもの)のすばらしい演奏にあると一言ってもいいだろう。むろんギターには、その前身である楽器の時代も含めれば長い歴史があり、レパートリーも多く、現在もまた増えつつある。彼は当然そういったギターのためのオリジナル作品も弾くが、しかし何といってもその非凡さは、さまざまな楽器のための作品(とりわけ管弦楽のためのもの)をギターの『言葉』で考え直す抜群の音楽性と、それを実際に音として再現できる高度なテクニックにある。聴衆はギターに対して持っていた漠然とした観念を見事に覆されて唖然とする。そして彼が新しい世界を描きだそうとするその強い意志にも感動するのだ。彼のステージはそのような期待を伴って迎えられる。しかし常に彼の意図が成功するとは限らない。当夜の内容にもそれはみられた。だがその上でなお、彼のコンサートには足を運ばせる何かがある。
演奏家が主張し、聴衆が反応する。演奏家の主張は聴衆への啓蒙であり、聴衆の反応は演奏家への要求でもある。コンサートを魅力あるものにするためには、このコミュニケーションが確立される必要がある。日本のクラシックの音楽会が、いま活気を失っているように思えるのは、そのあたりにも原因がありそうである。演奏家たちには、はっきりした主張を打ち出したプログラムなり演奏なりを示してほしいし、また聴き手も、自分の好みを言う前に、まず相手の主張に耳を傾ける度量がぜひともほしい。そして現状では、その両者の聞に介在するさまざまな存在の責任がはなはだ大であることは言うまでもない。
ところで三月二日朝、すでに締切日は過ぎたこの原稿を今日は書き上げねばと意気込みつつも、まずはと朝刊を聞くと『愛環鉄道は泣いている』との大見出しがあった。経営合理化のための無人駅が無賃駅と化しているという、何ともやりきれない記事だった。対策として社員を増員して無人駅に配置すると、その人件費は無賃乗車による被害額を超えるらしい。だがそうでもしないと『きちんと払ってくれる乗客に申しわけない』という社長(愛知県知事)の談話はまことに当を得ている。そうあるべきである。この『申しわけない』心が忘れかけられているところが音楽界にも多々あって『環境汚染』に輪をかけ、結果として演奏家の生活をも脅かしつつあることにはあまり関心が払われていない、というこの欄で私が提起したいと考えている大きな問題と似た現象が、図らずも別の世界で垣間みられた。
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by drinkingbear
| 2014-06-08 21:09
| コラム