2016年 07月 15日
「九〜八〜六」 記憶の連鎖 |
このところ連年、「足首骨折」「癌手術」「急性肺炎」と「事故」続きで、加齢の影響もありすっかり体力を消耗してしまった。口惜しいが従前のような「辛口」を吐く気力も衰えてきたようだ。
そして最近のような連日の暑さに辟易して、ついつい「引き籠もり」になると、どうしても「来し方」が浮かんでくる。そんな徒然の中で――。
つい先達てのこと、見るとも無く点けておいたテレビの参議院選挙一辺倒の報道の中に(余計なことだが、テレビなどで頻繁に「サンインセン」と聞かされると、京都に縁の深い身にはどうしても「山陰線」と聞こえてしまう。原稿は「参院選」と書いてあるのだろうが「サンギインセン」と「ギ」の一字を加えて読んでほしいものだ。「見ると聞くとは……」である)、永六輔氏の訃報が飛び込んできた。そしてすぐ脳裏に浮かんだのは「六・八・九」に纏わる三つの古い想い出である。(以下、文中敬称略)
●最初が「九=坂本九」との忘れられない「共演」。
1960年代の半ば、名古屋労音(勤労者音楽協議会)が例会で、「上を向いて歩こう」で大評判の「坂本九コンサート」を取り上げた。その時、経費節減のためにオーケストラの弦楽パートを、1959年に日本楽器(現:ヤマハ)が発表した電子オルガン《エレクトーン》を使用することになった(なにしろ数十人の弦楽奏者の代わりを独りで出来るとメーカーが宣伝これ務めている頃とて、主催者には願っても無い好条件だった)。
さて本番前日、筆者のところへ「予定していた奏者に支障が生じたので代わりに……」という依頼が舞い込んだ。なにしろあまり馴染みの無いジャンルを初見の譜面の上、通し練習一回〜本番という厳しい状況ではあったが、永六輔&中村八大コンビによる音楽と、坂本九の真摯な舞台創りの一端も伺うことが出来る得がたい機会を充分楽しんだものだった。
そして1985年「もう一度、『六・八・九』としてやり直したい」と語っていた彼の名を、日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者名簿に発見したときの衝撃――以後毎年「御巣鷹山」の日が報じられる度に、決まってオケボックスから見上げた彼の姿が鮮明に甦る。
●次が「八=中村八大」。
上記の公演の数年後、音楽教室講師対象のセミナーに中村八大を招いて作曲講座を行った。その中で、「上を向いて歩こう」を作曲した時の状況を「再現」して見せた姿が記憶に残っている。
「こんな風に」とウクレレを抱えてステージを歩きながら、「歌詞をブツブツ呟きまして、時折、九チャンのようにニーッと笑ってみたりして……」と歯を剥き出して見せる仕方話が無性に楽しかった。
●そして「六=永六輔」に振られる。
スタジオ・ルンデを始めて暫くしてのこと、当時「六輔七転八倒」という「トークショーを出前」していると聞き、亡妻が「面白そうだから呼んでみようか」と彼に手紙を書きルンデヘの出演を依頼した。ルンデの運営方法なども詳細に説明したようだったが、帰ってきた返事は「ノー」。どうも「会員制」というのが「閉鎖的」と取られたのか、気に入らなかったらしい。こちらは経済的な運営基盤が会員制でも、催事自体はすべてオープンなものだったが、その辺りがうまく理解されなかったらしい。
そして最近のような連日の暑さに辟易して、ついつい「引き籠もり」になると、どうしても「来し方」が浮かんでくる。そんな徒然の中で――。
つい先達てのこと、見るとも無く点けておいたテレビの参議院選挙一辺倒の報道の中に(余計なことだが、テレビなどで頻繁に「サンインセン」と聞かされると、京都に縁の深い身にはどうしても「山陰線」と聞こえてしまう。原稿は「参院選」と書いてあるのだろうが「サンギインセン」と「ギ」の一字を加えて読んでほしいものだ。「見ると聞くとは……」である)、永六輔氏の訃報が飛び込んできた。そしてすぐ脳裏に浮かんだのは「六・八・九」に纏わる三つの古い想い出である。(以下、文中敬称略)
●最初が「九=坂本九」との忘れられない「共演」。
1960年代の半ば、名古屋労音(勤労者音楽協議会)が例会で、「上を向いて歩こう」で大評判の「坂本九コンサート」を取り上げた。その時、経費節減のためにオーケストラの弦楽パートを、1959年に日本楽器(現:ヤマハ)が発表した電子オルガン《エレクトーン》を使用することになった(なにしろ数十人の弦楽奏者の代わりを独りで出来るとメーカーが宣伝これ務めている頃とて、主催者には願っても無い好条件だった)。
さて本番前日、筆者のところへ「予定していた奏者に支障が生じたので代わりに……」という依頼が舞い込んだ。なにしろあまり馴染みの無いジャンルを初見の譜面の上、通し練習一回〜本番という厳しい状況ではあったが、永六輔&中村八大コンビによる音楽と、坂本九の真摯な舞台創りの一端も伺うことが出来る得がたい機会を充分楽しんだものだった。
そして1985年「もう一度、『六・八・九』としてやり直したい」と語っていた彼の名を、日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者名簿に発見したときの衝撃――以後毎年「御巣鷹山」の日が報じられる度に、決まってオケボックスから見上げた彼の姿が鮮明に甦る。
●次が「八=中村八大」。
上記の公演の数年後、音楽教室講師対象のセミナーに中村八大を招いて作曲講座を行った。その中で、「上を向いて歩こう」を作曲した時の状況を「再現」して見せた姿が記憶に残っている。
「こんな風に」とウクレレを抱えてステージを歩きながら、「歌詞をブツブツ呟きまして、時折、九チャンのようにニーッと笑ってみたりして……」と歯を剥き出して見せる仕方話が無性に楽しかった。
●そして「六=永六輔」に振られる。
スタジオ・ルンデを始めて暫くしてのこと、当時「六輔七転八倒」という「トークショーを出前」していると聞き、亡妻が「面白そうだから呼んでみようか」と彼に手紙を書きルンデヘの出演を依頼した。ルンデの運営方法なども詳細に説明したようだったが、帰ってきた返事は「ノー」。どうも「会員制」というのが「閉鎖的」と取られたのか、気に入らなかったらしい。こちらは経済的な運営基盤が会員制でも、催事自体はすべてオープンなものだったが、その辺りがうまく理解されなかったらしい。
by drinkingbear
| 2016-07-15 08:26
| 雑感