2015年 02月 12日
濫用される「音楽」 |
どうも世間一般では「音」と「音楽」の区別が全然ついていないようだ。
「音楽でない音」は騒音以外の何物でもない。しかも音楽は、食べ物と同じく個人的な趣味嗜好が強く影響するものであるから、自分に合わないものを無理矢理聞かされるのは、時に耐えがたい苦痛となる。
ケイタイの着メロ、自動機の人口音声案内、駅のホームの過剰な放送など、非音楽の騒音公害も亦深刻である。
娘が幼稚園に上がった頃(半世紀も前のこと!)、静岡県の登呂遺跡へ行ったことがある。広々とした水田地帯にほどよく整備された遺跡が広がっていた。「さて、往古を偲ばん」とした時、耳に飛び込んできたのは、一軒きりの土産物屋の軒先に取り付けられたラウドスピーカー(PA装置などという洒落たものでは無い)から流れ続ける歌謡曲(いまなら演歌か)だった。とても弥生の昔に想いを馳せるどころではない。風の音より始末の悪い音環境に辟易して、早々に退散したことだった。
翻って最近の経験。手術を受けるためにかなり長期入院した某公立病院では、意外な音の公害に悩まされた。患者が自分のベッドのナースコール・ボタンを押すと、ナース・ステーションに信号音が鳴る仕組みだが、問題はその信号音。ここでは電子音による「音楽もどき」で、曲は「ラヴァーズ・コンチェルト」の一節。音程に若干の不安がある上、対位法にもなっていない二声部仕立てなのだ。言ってみればバッハへの冒涜! おまけに外科病棟だったこともあり昼夜の別なくのべつコールがある。運悪く病室がステーションに近かったので、これには悩まされ続けた。おりしも新棟建設中だとかで昼間は建設用の重機が轟音を立てていたが、こちらは明らかな「騒音」だから、読書などには何の支障もない。だが「音楽もどき」にはどうしても耳が反応してしまう。まことに弱った。
1900年代の終わり、名古屋に「クラシック・バー」なるものが出現、新発レコードの試聴版を聴かせるのがウリだったが、極めて短期間で店を畳んでしまった。さもありなん、入ったときに前の客のリクエストが鳴っていて、それが自分の好みで無いものだったらゆっくり呑んでいる気にもならず、連れとの会話も楽しめまい。
その昔ウィーンを訪れたときのこと。「ウィーンの森」の小高い丘にあった小さなカフェでは、席毎にイヤフォンで聴くジュークボックスが備えてあり、なにがしかの小銭でウィンナワルツや学生歌、ジプシー音楽が楽しめるようになっていたのを思い出す。これなら隣近所が何を聴いていようと我は我、存分に旅情を楽しめる。
日本の「観光地」では、いまもこの種の公害に襲われる。
足慣らしの散歩に、と思って「明治村」を訪れた。広大な敷地の中は、緑に埋もれたレトロな建物が点在し、まことに雰囲気はよろしい……と思ったのは早計だった。村内のどこにいても絶えず「音楽」がつきまとうのだ。流れている弦楽アンサンブルは二〜三曲あるようだが、クラシックだかポップスだかジャンル・国籍不明、テンポも調性も殆ど同じ。「明治」の昔に想いを馳せることは愚か、折角の鳥の声、風の音に耳を澄まそうにも邪魔でしかたない。いつ行っても同じ「音楽」を聴かされ続ける苦痛を、管理者は考えたことがあるだろうか。
上の例は、まだ本物の楽器に因るようだからまだしも、これが先のナースコールのように電子音だともっと悲惨である。
名古屋から近場の「茶臼山高原」へドライヴしたときのこと。
リフトで頂上に向かう間に、終始妙な金属音がつきまとうのに気がついた。気をつけてみると、グロッケンシュピール風の電子音で単音のオルゴールが鳴っている。メロディともつかぬ音列の繰り返しだが、音質が音質だけに、一度耳についたら離れない。ここも純粋な自然の音に囲まれることとは無縁の「観光地」だった。
ドイツやオーストリアで、大小の湖が静寂を保つため遊覧船にエンジンの使用を禁ずるなど、「音環境の保護」にも徹している場面をしばしば経験しているだけに、彼我の「音」に対する意識の違いを感じざるを得ない。
「音楽でない音」は騒音以外の何物でもない。しかも音楽は、食べ物と同じく個人的な趣味嗜好が強く影響するものであるから、自分に合わないものを無理矢理聞かされるのは、時に耐えがたい苦痛となる。
ケイタイの着メロ、自動機の人口音声案内、駅のホームの過剰な放送など、非音楽の騒音公害も亦深刻である。
娘が幼稚園に上がった頃(半世紀も前のこと!)、静岡県の登呂遺跡へ行ったことがある。広々とした水田地帯にほどよく整備された遺跡が広がっていた。「さて、往古を偲ばん」とした時、耳に飛び込んできたのは、一軒きりの土産物屋の軒先に取り付けられたラウドスピーカー(PA装置などという洒落たものでは無い)から流れ続ける歌謡曲(いまなら演歌か)だった。とても弥生の昔に想いを馳せるどころではない。風の音より始末の悪い音環境に辟易して、早々に退散したことだった。
翻って最近の経験。手術を受けるためにかなり長期入院した某公立病院では、意外な音の公害に悩まされた。患者が自分のベッドのナースコール・ボタンを押すと、ナース・ステーションに信号音が鳴る仕組みだが、問題はその信号音。ここでは電子音による「音楽もどき」で、曲は「ラヴァーズ・コンチェルト」の一節。音程に若干の不安がある上、対位法にもなっていない二声部仕立てなのだ。言ってみればバッハへの冒涜! おまけに外科病棟だったこともあり昼夜の別なくのべつコールがある。運悪く病室がステーションに近かったので、これには悩まされ続けた。おりしも新棟建設中だとかで昼間は建設用の重機が轟音を立てていたが、こちらは明らかな「騒音」だから、読書などには何の支障もない。だが「音楽もどき」にはどうしても耳が反応してしまう。まことに弱った。
1900年代の終わり、名古屋に「クラシック・バー」なるものが出現、新発レコードの試聴版を聴かせるのがウリだったが、極めて短期間で店を畳んでしまった。さもありなん、入ったときに前の客のリクエストが鳴っていて、それが自分の好みで無いものだったらゆっくり呑んでいる気にもならず、連れとの会話も楽しめまい。
その昔ウィーンを訪れたときのこと。「ウィーンの森」の小高い丘にあった小さなカフェでは、席毎にイヤフォンで聴くジュークボックスが備えてあり、なにがしかの小銭でウィンナワルツや学生歌、ジプシー音楽が楽しめるようになっていたのを思い出す。これなら隣近所が何を聴いていようと我は我、存分に旅情を楽しめる。
日本の「観光地」では、いまもこの種の公害に襲われる。
足慣らしの散歩に、と思って「明治村」を訪れた。広大な敷地の中は、緑に埋もれたレトロな建物が点在し、まことに雰囲気はよろしい……と思ったのは早計だった。村内のどこにいても絶えず「音楽」がつきまとうのだ。流れている弦楽アンサンブルは二〜三曲あるようだが、クラシックだかポップスだかジャンル・国籍不明、テンポも調性も殆ど同じ。「明治」の昔に想いを馳せることは愚か、折角の鳥の声、風の音に耳を澄まそうにも邪魔でしかたない。いつ行っても同じ「音楽」を聴かされ続ける苦痛を、管理者は考えたことがあるだろうか。
上の例は、まだ本物の楽器に因るようだからまだしも、これが先のナースコールのように電子音だともっと悲惨である。
名古屋から近場の「茶臼山高原」へドライヴしたときのこと。
リフトで頂上に向かう間に、終始妙な金属音がつきまとうのに気がついた。気をつけてみると、グロッケンシュピール風の電子音で単音のオルゴールが鳴っている。メロディともつかぬ音列の繰り返しだが、音質が音質だけに、一度耳についたら離れない。ここも純粋な自然の音に囲まれることとは無縁の「観光地」だった。
ドイツやオーストリアで、大小の湖が静寂を保つため遊覧船にエンジンの使用を禁ずるなど、「音環境の保護」にも徹している場面をしばしば経験しているだけに、彼我の「音」に対する意識の違いを感じざるを得ない。
by drinkingbear
| 2015-02-12 15:53
| コラム