2013年 11月 23日
感謝して勤労する日 |
今日は「勤労感謝の日」である。終戦直後までは「新嘗祭」と呼ばれていた祝休日だ。
いささか古い話ではあるが、1985年のこの日には、格別の想いがある。私的には俗に言う「銀婚式」に当たる日であったが、それよりも、今は亡きロシアの名ピアニスト、タチアナ・ニコライエワ女史との忘れえぬ思い出があるのだ。
当時スタジオ・ルンデで主宰していた「ルンデの会例会」に、1982,84年についで三度目になる来演で、22日は恒例の「お話と演奏」(この時は『ニコライエワ〜バッハを語る』の第2回)で、中二日おいて25日が演奏会『ニコライエワ 〜 バッハを弾く 2』であった。

女史は、82年の最初の来演時(開館一周年の当日)に、ルンデ常備のピアノ(YAMAHA CF)がいたくお気に召し『私のピアノ』と呼んで、終演後のステージでフレームにサインをしてくださったほどだった。以後、サンフランシスコでのコンサート中のステージで突然の死に襲われた年(1993年11月)までの11年間に七度来演、すっかり「演奏家のリピーター」の代表格としてお馴染みであった。
この年1985年の11月25日の例会でも、ステージで三つ目のサインを入れている(写真)。
以下、当時の思い出を、『ルンデの会会報 1985年12月号』の記事から引用する。
《COFFEE BREAK》欄掲載
感謝して勤労する日
ニコライエワ女史の演奏会が、当初予定の23日から25日に変ったのは、沖縄公演の会場の都合でルンデが譲歩したためでした。ところが実際には、その公演がキャンセルになってしまったのです。ポツカリ空いた一日は、ハード・スケジュールの連続だった女史には格好の休息日だったようです。
でも午前中は練習したい、と言う申し出があったので、朝ホテルヘ(彼女のお気に入りの)ワゴンでお迎えに行きました。前日とは打って変った良いお天気に、(名古屋城の)お堀の周囲を一回りしました。イチョウの葉っぱが黄色くなって散り敷いている道を行くと『日本の秋は本当に素晴らしい、きれいですね』とご満悦。
また、お堀の岸でセーラー服姿の女学生が二人、枝を離れた枯葉を空中で摑まえようと無邪気に走り回る姿を見て、『おお、とてもいい光景ですネ』とニッコリ。
今日は “勤労感謝の日” という休日、と言うと『でもお店は開いているし、あなたも仕事でしょう?』とケゲンそう。『そうです、《みんな感謝して勤労する日》なんです』というと、手を打って大喜びし、『そうそう私も年中感謝して働いております』と。
ヒョウタンから駒
さて、ホールで、ルンデのチェンバロを見せると、『私はオルガンでもチェンバロでも弾きますヨ』と早速試弾。『これは素晴らしい! 25日には、これも弾きましょうか?』。最初は冗談かと思ったのですが、『そうね、 “イタリア協奏曲” がいいでしょう』と、どんどん弾き進みます。……そして、本番の日、チェンバロ・アンコールを2曲も!
タチアナおばあちゃん
ニコライエワさんは、日本で、おばあちゃんになりました。
とてもハンサムな息子さんの、とびきり綺麗なお嫁さん(女史のお弟子さんで、やっぱりタチアナというそうで)が丁度臨月なのに心を残しながらモスクワを出てきたのですが、東京のホテルで待っていたメッセージが『赤ちゃん誕生!』。『アア、早く帰りたいワ』。ごもっとも、ごもっとも。
《編集後記》欄より
ニコライエワ女史の沖縄公演は、結局中止となりました。理由は、どうやら外務省が女史の沖縄への立ち入りを許可しなかったからのようです。日本人がソ連で立ち入れないところがあるように、日本政府もそうした場所を設定しているようですが、残念なことです。女史も、『私は《音楽》だ。政治とは何のかかわりもない』と、ただ憮然……。
女史が日本での公開演奏会でチェンバロを弾いたのは、空前絶後の出来事だろう。コンサート全体が深い感動を呼ぶ素晴らしいものだったことは、言うまでも無い。
いささか古い話ではあるが、1985年のこの日には、格別の想いがある。私的には俗に言う「銀婚式」に当たる日であったが、それよりも、今は亡きロシアの名ピアニスト、タチアナ・ニコライエワ女史との忘れえぬ思い出があるのだ。
当時スタジオ・ルンデで主宰していた「ルンデの会例会」に、1982,84年についで三度目になる来演で、22日は恒例の「お話と演奏」(この時は『ニコライエワ〜バッハを語る』の第2回)で、中二日おいて25日が演奏会『ニコライエワ 〜 バッハを弾く 2』であった。

女史は、82年の最初の来演時(開館一周年の当日)に、ルンデ常備のピアノ(YAMAHA CF)がいたくお気に召し『私のピアノ』と呼んで、終演後のステージでフレームにサインをしてくださったほどだった。以後、サンフランシスコでのコンサート中のステージで突然の死に襲われた年(1993年11月)までの11年間に七度来演、すっかり「演奏家のリピーター」の代表格としてお馴染みであった。
この年1985年の11月25日の例会でも、ステージで三つ目のサインを入れている(写真)。
以下、当時の思い出を、『ルンデの会会報 1985年12月号』の記事から引用する。
《COFFEE BREAK》欄掲載
感謝して勤労する日
ニコライエワ女史の演奏会が、当初予定の23日から25日に変ったのは、沖縄公演の会場の都合でルンデが譲歩したためでした。ところが実際には、その公演がキャンセルになってしまったのです。ポツカリ空いた一日は、ハード・スケジュールの連続だった女史には格好の休息日だったようです。
でも午前中は練習したい、と言う申し出があったので、朝ホテルヘ(彼女のお気に入りの)ワゴンでお迎えに行きました。前日とは打って変った良いお天気に、(名古屋城の)お堀の周囲を一回りしました。イチョウの葉っぱが黄色くなって散り敷いている道を行くと『日本の秋は本当に素晴らしい、きれいですね』とご満悦。
また、お堀の岸でセーラー服姿の女学生が二人、枝を離れた枯葉を空中で摑まえようと無邪気に走り回る姿を見て、『おお、とてもいい光景ですネ』とニッコリ。
今日は “勤労感謝の日” という休日、と言うと『でもお店は開いているし、あなたも仕事でしょう?』とケゲンそう。『そうです、《みんな感謝して勤労する日》なんです』というと、手を打って大喜びし、『そうそう私も年中感謝して働いております』と。
ヒョウタンから駒
さて、ホールで、ルンデのチェンバロを見せると、『私はオルガンでもチェンバロでも弾きますヨ』と早速試弾。『これは素晴らしい! 25日には、これも弾きましょうか?』。最初は冗談かと思ったのですが、『そうね、 “イタリア協奏曲” がいいでしょう』と、どんどん弾き進みます。……そして、本番の日、チェンバロ・アンコールを2曲も!
タチアナおばあちゃん
ニコライエワさんは、日本で、おばあちゃんになりました。
とてもハンサムな息子さんの、とびきり綺麗なお嫁さん(女史のお弟子さんで、やっぱりタチアナというそうで)が丁度臨月なのに心を残しながらモスクワを出てきたのですが、東京のホテルで待っていたメッセージが『赤ちゃん誕生!』。『アア、早く帰りたいワ』。ごもっとも、ごもっとも。
《編集後記》欄より
ニコライエワ女史の沖縄公演は、結局中止となりました。理由は、どうやら外務省が女史の沖縄への立ち入りを許可しなかったからのようです。日本人がソ連で立ち入れないところがあるように、日本政府もそうした場所を設定しているようですが、残念なことです。女史も、『私は《音楽》だ。政治とは何のかかわりもない』と、ただ憮然……。
女史が日本での公開演奏会でチェンバロを弾いたのは、空前絶後の出来事だろう。コンサート全体が深い感動を呼ぶ素晴らしいものだったことは、言うまでも無い。
by drinkingbear
| 2013-11-23 11:44
| 雑感