2012年 12月 08日
形あるもの必ず滅す 而・廃炉の事 |
中央自動車道笹子トンネルで痛ましい事故が起きた。天井板の大量落下による複数死者発生である。そしてこれは、建設以来長い年月が経過しているにもかかわらず、計画的な保守点検がなされていなかったために起こるべくして起こったのだ。例によって、大事故発生を受けて大急ぎで各地で点検作業が始まったが、その労力を常日頃から継続的に注いでいれば、の思いを改めて痛感する。
また、それ以前に、どだい大変な重量物を、天井から吊るという方法でのみ支え、梁を用いない構造の耐久性安全性は、どんな根拠で満たされたのであろうか(天井に埋め込まれたボルトは接着剤で固定されていたと云うが、接着剤の経年劣化の結果抜け落ちているものがあったことが、事故後の点検調査で明らかになっている)。
築後百年を誇る木造建築は、堂々とした大黒柱と逞しい梁によってその姿を今に留めている。そしてそれらは老朽化に耐えなくなったとき、自然に朽ち果て土に還る。現代のコンクリートビルは、老朽化したとき、最新の爆破技術によって一瞬にして瓦礫の山と化し、消し去ることが出来る。そして生まれ変わった新しい建物——が、トンネルのような構造物が老朽化したとき、その処理をどうするのか、果たして建設時に考慮されたことがあるのだろうか。
何事によらず、「創る」ことより「維持する」事の方が困難であり、多大な労力を要するものである。俗に言うところの「ハコモノ」事業は、その端的な例であり、現に各地で無数の問題を抱えている。
現今の風潮では、行政も企業も、「経営合理化」の名のもとに等しく保守管理部門を経済的に(則人的に)まず縮小している。だが、華々しく表面に現れないこの部門は、周囲の規模の大小を問わず、常に最も重視されねばならないはずだ。組織の上層部で功成り名遂げて高禄を食んでいる寛いでいる方々に、二・三「勇退」願えば、現場スタッフの5人や10人抱えてもお釣り来るだろに。
さて、維持管理に関する問題で最も典型的な例が、はしなくも東日本大震災で大きく浮かび上がってきた。原子力発電所についてである。その寿命が如何ほどであるかは関係なく、いつかは老朽化が起こり、いずれは廃炉にする時期が来ることは当初から明々白々だった筈だ。しかし現在明らかになっているところから察すると、老朽化から廃炉に至るプロセスに対して、何の手段も確立され居なかったのではないか。偶々「想定外」の津波で原子炉が損傷を受け、それに対処する策が皆無に等しい実情が明らかになった。世のことわざに「泥棒見て縄をなう」というのがあるが、縄をなおうにも藁屑も見当たらないお粗末さで、これには愕然とした。
折から衆議院選挙のための運動が囂しいが、「原発ゼロ」を謳うにせよ「フェイドアウト」を叫ぶにせよ、それ以前に無用とした原子炉の始末はどうなっているのか——我々はそれについて何も知らされていない。思うだに恐ろしいことである。
ここは、何処かの国みたいに、全部地中に埋めてしまって知らん顔とは行くまい。
「形あるもの」を造るときは、それが「滅する」ときのことを始めから考えておくのが根本の道理というものだ。
また、それ以前に、どだい大変な重量物を、天井から吊るという方法でのみ支え、梁を用いない構造の耐久性安全性は、どんな根拠で満たされたのであろうか(天井に埋め込まれたボルトは接着剤で固定されていたと云うが、接着剤の経年劣化の結果抜け落ちているものがあったことが、事故後の点検調査で明らかになっている)。
築後百年を誇る木造建築は、堂々とした大黒柱と逞しい梁によってその姿を今に留めている。そしてそれらは老朽化に耐えなくなったとき、自然に朽ち果て土に還る。現代のコンクリートビルは、老朽化したとき、最新の爆破技術によって一瞬にして瓦礫の山と化し、消し去ることが出来る。そして生まれ変わった新しい建物——が、トンネルのような構造物が老朽化したとき、その処理をどうするのか、果たして建設時に考慮されたことがあるのだろうか。
何事によらず、「創る」ことより「維持する」事の方が困難であり、多大な労力を要するものである。俗に言うところの「ハコモノ」事業は、その端的な例であり、現に各地で無数の問題を抱えている。
現今の風潮では、行政も企業も、「経営合理化」の名のもとに等しく保守管理部門を経済的に(則人的に)まず縮小している。だが、華々しく表面に現れないこの部門は、周囲の規模の大小を問わず、常に最も重視されねばならないはずだ。組織の上層部で功成り名遂げて高禄を食んでいる寛いでいる方々に、二・三「勇退」願えば、現場スタッフの5人や10人抱えてもお釣り来るだろに。
さて、維持管理に関する問題で最も典型的な例が、はしなくも東日本大震災で大きく浮かび上がってきた。原子力発電所についてである。その寿命が如何ほどであるかは関係なく、いつかは老朽化が起こり、いずれは廃炉にする時期が来ることは当初から明々白々だった筈だ。しかし現在明らかになっているところから察すると、老朽化から廃炉に至るプロセスに対して、何の手段も確立され居なかったのではないか。偶々「想定外」の津波で原子炉が損傷を受け、それに対処する策が皆無に等しい実情が明らかになった。世のことわざに「泥棒見て縄をなう」というのがあるが、縄をなおうにも藁屑も見当たらないお粗末さで、これには愕然とした。
折から衆議院選挙のための運動が囂しいが、「原発ゼロ」を謳うにせよ「フェイドアウト」を叫ぶにせよ、それ以前に無用とした原子炉の始末はどうなっているのか——我々はそれについて何も知らされていない。思うだに恐ろしいことである。
ここは、何処かの国みたいに、全部地中に埋めてしまって知らん顔とは行くまい。
「形あるもの」を造るときは、それが「滅する」ときのことを始めから考えておくのが根本の道理というものだ。
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by drinkingbear
| 2012-12-08 15:36
| コラム