2015年 11月 16日
「車」〜自動運転のこと |
先日の朝日新聞「声」欄への投稿で、中学生の少女が「自動運転車は本当に安全か」と不安を述べていた。
曰く『東京モーターショーで、ハンドルを握らなくても走る自動運転車が注目された。日本の技術進化の象徴といえるものだろう。しかし、私は正直、怖くてたまらない。自動運転は楽だろうが、命を預けられるほど安全なのだろうか。人間の不注意による事故は減るかもしれないが、機械による事故は起きないのだろうか。どれだけすごい技術でも、人間がつくったものだ。いつ壊れるか分からないものに、自分の命は預けるのが怖い。』
そして『人間が機械に頼るのではなく、人間が上手に機械を操れる形で、技術は進化してほしいと思う。』と続く。まさにその通りである。そこが一番問題であろう。本来人間がなすべきにもかかわらず、それを「機械」に委ねすぎている場合がいかに多いことか。
これに関しては、斯く申す筆者も、かつて2000年1月の、今で云うなら「ブログ」に当たるインターネット上のコラムで、『「出来ること」と「すること」』と題して取り上げている。(サイトのURL:http://www.pippo-jp.com/runde/spot/y2k/bn_jan.html#spot20)
『エレクトロニクスの技術が発展するにつれて、昔は夢でしか無かったことが次々と実現されて来た。それはそれで素晴らしいとは思うが、果たしてそうまですべきだろうかと思うことも多々ある。技術依存が過度に過ぎると思われるものから、人間としての尊厳に係わるものまで、様々な問題が起きている。
前者の一つに、自動車の運転制御がある。スピードの出し過ぎや、先行車両との距離の接近を監視制御する技術などがそれである。もちろんそれが適切に作動することが100%保証されれば、事故の減少には繋がるだろうけれど、一方で運転者の「自覚」についてはどうだろう。人間にミスがあるように、機械にもミスはつきものである。ハイテク技術の結晶である筈の宇宙ロケットの打ち上げ失敗や、原子力関係施設や航空機の事故などが、それを如実に物語っている。「科学技術」への過度の依存は、決して許されるべきではない。人間が最終責任を負うことによって、人間社会が成立するのだ。 云々』
また、1999年11月の同欄(http://www.pippo-jp.com/runde/spot/y_1999/bnnov99.html#spot10)では
『入ろうという意志が毛頭ないの勝手に開くドア(アラビアン・ナイトの時代の方が遙かに進んでいた。「開けゴマ」と言われてから自動的に開く)、ひょっとして「あなたの預金残高は」と読み上げられるのかと辺りを窺いたくなる位景気のいい挨拶をするATM。掛け間違いで受話器を置いたのに「マイドゴリヨウアリガトウゴザイマス」と相手をからかう公衆電話……。ヘンな世の中である』
ともボヤいていた。
因みに、現在筆者は上掲の「スピードの出し過ぎや、先行車両との距離の接近を監視制御する技術」の恩恵に浴しつつ、満80歳の今も「自分で」気楽にドライヴを楽しめている。
まあこのテの問題は、いま、身の回りに溢れすぎてはいるのだが……。
by drinkingbear
| 2015-11-16 22:16
| コラム